気まぐれ日記 2014年1月
2013年12月はここ
1月1日(水)「穏やかな年明け・・・の風さん」
昨年に続いて、年が明けてから、特に観たいテレビ番組もないので、iPadminiで「フィールドオブドリームス」を観た。
感動した。同時に、早く小説を書ける環境に浸りたいと思った。残された時間は決して長くないのだ。
遅寝遅起きをし、それでもちゃんと屠蘇を飲んで、雑煮も食べて、届いた年賀状の整理もして、酔いが少し残っているうちに、完全武装でワイフと恒例の初詣に出かけた。徒歩である。
すれ違う見知らぬ人や、駐車場でうずくまっている猫にも新年の挨拶をした。
神社は人っ子ひとりいない状態だったが、珍しく本殿の扉が開いていて内部が見えた。
たまっていた守り札を神様にお返しした。
早くも年賀状が足りなくなったので、帰りにコンビニで数枚購入した。
そのとき5時の「ふるさと」がスピーカーから流れてきた。震災以来、「ふるさと」のメロディは胸に迫る。加えて亡き母の思い出につながるのでつらくなる。涙が出そうになる。
しかし、こらえて歩かねばならなかった。前に進まねばならなかった。
穏やかな新年の幕開けだった。きっと私の次の人生のスタートを暗示するものだろうと都合よく考えることにした。
1月2日(木)「恒例の焼き肉パーティー・・・の風さん」
貴重な休みなので、たまっている雑用も片付けている。実は、ホームページの更新も追いついていない。1月の分が書けるのはいつになるやら予想もつかない(実は、1日と2日の分は16日に書いている)。
寝坊せずにまともな時間に起床できたので、キャメロンで昨夜書き上げた年賀状を出しに行った。
長女は年末年始も頑張って働いているので、4人での年明けとなっている。
今夜は、これも恒例になりつつある焼き肉パーティーとなった。ワイフが知り合いから新鮮でリーズナブルな価格の牛肉を送ってもらっていたのだ。
私は牛肉はレアで食べたい人である。
今夜がそのチャンスだと思ったので、最後まで地元の塩だけをつけるやり方で、レアの牛肉を食べた。
特に体調に変化もなかったので、大丈夫だったようだ。
1月3日(金)「ここが両親の家・・・の風さん」
何年かぶりでワイフの実家へ出かけた。義父母が私の定年退職を労ってくれるという。とにかく盆も正月もなく働きづめに働き続けてきたので、たまにはゆっくり飲んで食べてくれという、ありがたい配慮である。しかし、私にしてみれば、ずっと義理を欠いてきたわけだから、無条件で甘えるわけにはいかなかった。
予定通りお昼ごろ着いて、先ずは……じゃなくって、いきなり冷酒で乾杯となった。一緒についてきた長男はビール。こいつは無口なので、こういうイベントでは存在価値はほとんどない(笑)。
たちまちリラックスしてしまった私はふと気付いた。自分にはもう帰る両親の家がないのだ。あるとすれば、ここしかないのだ、と。
自分の孫のことまでは考えられないが、少なくとも自分の3人の子供らのために、今の家は大切にしようと思った。子供らが育った両親(自分たち夫婦のこと)の家なのだから。
そして、自分にとっての両親の家は、これからはここになるのだ。
私が酔いつぶれて寝ている間に、皆、買い物に出かけてしまった。
帰宅して酔いも醒めた深夜、ワイヤレスのプリンターで印刷しようとしたら、できなかった。昨日までできていたことが、急にできなくなったのだ。あれこれと試してみた。ネット検索で可能性のある対策をやってみても、ダメだった。無線LANのルーターを更新したのが原因に違いない。QC的にはそうなるが、対策が分からなかった。
怒りで爆発しそうになった私は、必死にこらえて乱暴な手を打ってみた。無線LANの電源のOFF⇒ONである。
そうしたら、何もなかったように、自然に印刷ができるようになった。
無線LANがプリンターを認識していなかったのだ。
1月4日(土)「女優の悩み・・・の風さん」
今日は執筆中のテキストに図表などを挿入する日である。全部で32枚になるので、例によって東大方式でごりごりやることにした。
途中で何度も中断したが、それなりの理由があった。
秋田の友人から日本酒が届いた。昨年の11月、出張のために飲み会に参加できなかった友人だ。開けてみると、厳選された極上の酒だった。すぐにお礼の電話を入れたが留守だった。
そうこうしているうちに長男が京都に帰ってしまった。
久しぶりに五大路子さんから電話があった。4月にやる長谷川伸をモデルにした芝居に対する悩みだった。五大さんは長谷川伸のお母さんにフォーカスした芝居にしたいのだが、企画サイドは長谷川伸にこだわっているという。小説なら主人公の目を通してその母親を描くことができるが、芝居ではどうだろうか。励ます程度のことしかできなかったのが悔しい。
当初、東大方式でやれば楽勝と思われた図表の挿入だったが、午前零時を回ってもできなかった。おまけにペースも落ちる一方だった。
1月5日(日)「連休最終日も綱渡り・・・の風さん」
図表を挿入したテキスト原稿(案)が完成したのは夜明け前の午前4時だった。
10連休の最後になって、いつものパターンになってしまった。
風呂で体を温めて、ベッドに倒れ込んだ。
再び目が覚めたら、12時59分だった。
たいして空腹でもなかったので、朝と昼を抜こうと思った。カロリー摂取過多の年末年始だから、2食抜いてもダイエットにはほど遠い。
久しぶりにキャメロンで外出した。
郵便局へ行って年賀状を投函し、コンビニでまた年賀状を購入し、図書館へ行って相互貸借本を返却した。
やっと長女が帰省してきた。働き過ぎだと思う(自分のことは棚に上げて)。
今夜はワイフが夢にまで見た寒ブリのしゃぶしゃぶだった。
あまりの贅沢に、私は刺身のままで食べた。
このままダウンしてはいけないので、私だけ飲み物はノンアルコールにした。
それから、10日の講演のためのレジュメを執念で仕上げて送信した。何時に終わったか覚えていない。
1月6日(月)「伝授のだまっこ・・・の風さん」
出勤前に3時間の睡眠をとることができたので、満足して出社した。
2014年最初の勤務日である。そして、このような日は二度と来ない。3月末まで精一杯仕事をして(と言っても雑務に近い仕事がたくさんあるだけだが)、4月から人生の何度目かのスタートを切るのだ。
昨年仕掛けてあった打ち合わせを午前中にして、午後も年賀式をはさんでひたすら仕事を続けた。
帰りにはキャメロンに給油し、灯油も購入して帰宅。
今夜は長女がいる間にやらねばならないことがある。そう。きりたんぽ鍋だ。我が家の大好物で、とりわけ長女も気に入っている料理である。きりたんぽが少し不足していたので、ワイフがご飯でだまっこを作って補った。これは亡き母からの伝授だという。
人生は色々なことが起きるが、家族で食事をしているときに一番の幸せを感じる。それが最も普通のことで、本当の幸せではないかと思う。若いころには全く分からなかった。
食後のコーヒーを淹れて、たとえ遅い時刻でも、それが最初なら、しっかり仏壇に供える。
午前2時まで書斎で仕事をした。
1月7日(火)「住吉神社の算額・・・の風さん」
今日はフレックスでゆっくり出社することにして、8時半に由利本荘市の住吉神社の面倒をみている宮司さんへ電話した。10日に出かけたとき、今度こそ算額を見学させてもらおうという作戦である。ところが、朝早くから出かけていて、夕方再度電話することになった。
毎朝有料道路を突っ走って通勤しているのだが、今朝は面白いことがあった。
追い越し車線を1@@km/時で走行中、リヤビューミラーに白いへん平の車体がぐんぐん接近しているのが見えた。スーパーカーらしい。観光地に住んでいるので、旅行客の車が走っていることは珍しくない。すぐさま走行車線にキャメロンを寄せたら、まもなく白い怪物が横を風のように走り去っていった。レクサスLFAだった。サーキットでもない限り、その運動性能を使うときがない、とんでもないクルマである。走っている実物を初めて見た。
午前も午後も自分で仕掛けた会議をこなした。
夕方、約束通り住吉神社に電話すると、快く受けてもらえたが、宮司さんは多忙とのことで、息子さんが本殿の鍵を開けてくれるという。もちろんOKだ。
帰宅して、友人らにこの話をメールし、一緒に見学しないか、と誘った。
1月8日(水)「苦労したテキスト原稿に目途・・・の風さん」
今日は有休。新幹線で上京した。JMAのテキスト製作委員会があるのだ。
天気予報は雨だったが、まだ降り出していない。
実は、昨夜もほぼ徹夜で、実質睡眠時間は1時間程度だった。
行きの車中で、共同執筆者の人たちの原稿を読んで、コメントを余白に記入し、会議に備えた。
JMAの本部のすぐ近くに増上寺があるので、お参りしてから会議へ向かうことにした。
NHKの大晦日の「ゆく年くる年」で生放送があったお寺である。干支の馬のお守りを購入して参拝した。
共同執筆者と違って遅れに遅れて提出したのだが、それでも何とか提出できていたので、みじめな会議にならないで済んだ。
5時過ぎまでコーヒーを何杯も飲みながら(そうでないと眠くて失神する恐れがあった)互いの原稿や全体構成を検討し合った。
やっと終わった時には、外は本格的な雨になっていた。
テキスト原稿にいちおうの目途がついたので、私はいくらかの達成感と新たな決意を身内に感じていた。
JRの駅の近くの中華料理屋で懇親会になった。四川風の辛い料理の店で、中国の話題も多かった。経験者が多いからだ。
帰りの新幹線ではさすがに眠りこけたが、名古屋からの名鉄車中では、明日の非常勤講義の予習をした。
1月9日(木)「東奔西走・・・の風さん」
6時半起床。有料道路を突っ走って本社へ。今日は慶應大学やスイス工科大学の学生の案内である。スケジュールは駅での迎えから始まる。予定では8時47分に到着する。
余裕で本社の駐車場に着いたと思ったら、今日は新年の交礼会とかで、周辺の駐車場がブロックされていた。本社をはさんで駅と反対側の駐車場にとめることになってしまったので、ずいぶん歩いた。足が痛くなった(鍛錬不足)。
総勢10名ほどで半分は外国人(フランス人、ドイツ人、台湾人、メキシコ人)。
本社の製品展示場から始まって、バスで移動して工場見学、再び本社に戻ってきたのはお昼である。
本社内のレストランで楽しくランチした後、セントラルパークへ誘導して、デミング賞やPM事業場賞の記念碑を紹介した。製品展示場で話した内容の証拠でもある。プリントした参考資料をその場で配った。
午後の質疑応答では二人の部長に来ていただいて、ほとんど英語でおこなわれた。内容は勉強になった。また、朝から晩まで英語の生活を毎日続けていれば、私のガンコな耳も英語耳になるかも、と思った。
質疑は続いていたが、次のスケジュールが迫っている私は、途中で退席した。外国人学生らと別れるのがちょっぴりつらかったが、4月から私はこの研究室の研究員なので、また会えるかも。
キャメロンに飛び乗って、名古屋高速も利用して、本山キャンパスへ。
昨夜遅くまで用意した資料を使って、非常勤講義を無事終えた……と言いたいところだが、日本語が難しいせいか、中国人留学生が簡単な算数もできない。レポートも提出してこないし、授業中に質問してもちんぷんかんぷんなのである。これは厄介だ。
講義後、地下鉄で名駅を往復した。秋田へ持参するお土産を名駅コンコースにあるショップで買うためだった。
重いお土産を持って歩くと足が痛い。そうだ。今日は朝からずいぶん歩いていたのだ。
今日は、名古屋高速と知多半島道路を使って帰宅した。明日の朝は早い。
1月10日(金)「見学会、講演会、同窓会・・・の風さん」
今日の講演準備のため、昨夜は徹夜になってしまった。
6時半にワイフのクルマを運転して家を出た。となりにはワイフ。セントレアで運転を交代するのである。
ANAでチェックインすると、「秋田空港は雪です。着陸できない場合は、またここへ戻ってくることになります」などと言われた。だから行くのをやめろとでも言うのか。今から新幹線に乗り換えてはたして間に合うだろうか。考えたくもない(続いている睡眠不足で私の気も苛立っていた)。
キャリーバッグを預け、住吉神社へ供えるお土産も買い、手荷物検査を受けて、いつもの出発ロビーへ向かった。
8時発まで時間があったので、缶コーヒーを買って、マックを立ち上げて、メール送信を試みた。ここはWi-Fiが無料なのだ。
秋田空港には30分遅れで着陸した。滑走路の除雪を待つ間も含めて、機中で睡眠がとれたのはラッキーだった(ドリンクサービスにも気が付かず)。しかし、上空から眺める秋田は完全な雪景色だった。
前回と同様にレンタカーを借りたのだが、路面は雪に覆われていて全く見えない。スタッドレスタイヤでうまく走れるのだろうか。
11時半に住吉神社で合流する約束だが、無事にたどり着けるだろうか。
ケータイで秋田に着いたことを友人に連絡し、とりあえずひと安心。万が一のときは、彼に連絡役をたのめる。
今回はナビが日本海東北自動車道へと案内してくれた。雪のため制限速度は50km/時。ほとんど走っていない。なにしろ吹雪なのだ(笑)。雪道を走るのは何年ぶりか分からない。今世紀に入って初めてだろう。学生時代は死ぬほどアイスバーンの道路を走ったが、当時はスパイクタイヤというごつい武器があった。加えて、今運転しているクルマは軽四である。
横風を受けてハンドルをとられながらも、何とか由利本荘に入った。
住吉神社に着くと既に何人かの同級生が到着していた。本殿も開いていた。宮司の息子さんが早々と来て待ってくれていた。
吹雪の中なので、クルマのエンジンはかかったままにしておいた(つまりヒーターをオンにしたまま)。
算額は入って右側の上の方にかかっていた。たて1m、よこ2mの立派なものだ。ある資料によれば判読不能とのことだったが、レプリカでもないのに文字はすべて読める。これが現地調査の重要なところだ。かつて厳島神社でも経験したことである。あのときは、算額の裏面に掲額の由縁が書かれているという話だったが、実物を見たら表面に書かれていた。裏面は何も記載なしだった。
宮司さんの息子さんが、算額に関する資料をコピーして持って来てくれたので、これも非常にありがたかった。名刺と拙著『江戸の天才数学者』で自己紹介しつつ、お土産のお菓子を渡したが、人の好意は本当にありがたい。中で写真もたくさん撮らせてもらった。
ハプニングもあった。今日は多忙で来れなかった宮司さんが、友人と高校の同級生だったことだ。こんなところに算額があり、それを管理している宮司さんが友人の高校の同級生だったことに、友人が一番驚いていた。
30分で見学を終えると、皆で講演会のあるホテルへ移動し、軽くランチにした。同級生も私の講演を聴いてくれるのだ。
続いて、私は講演の準備に入った。出版社から届けられた30冊の本にサインし、今日の講演スライドに、さっきの算額見学の写真を貼り付け、さらに考えに考え抜いた講演の結論スライドを1枚こしらえた。あらゆる出来事が、この結論スライドで集約された。「人生は人との出会いのためにある」(といった側面もあるでしょう?)である。
時間が近付いて、会場をチェックすると、秋田から県庁勤務の後輩がわざわざ来てくれていた。うれしかった。
準備の中で、たまに起きるトラブルだが、マックとプロジェクターの相性が悪く、手こずった。動画は2本のうち1本しか見せることができなかった。
本番は、たっぷり2時間近く用意してもらえたので、てんこ盛りの内容でも、何とかすべて紹介することができた。
続けて懇親会となった。少々硬い雰囲気があったが、乾杯の後、私は席を回って先生方と交流した。
懇親会は古い「秋田県民の歌」の斉唱でしめくくられた。郷土愛は祖国愛に通じる。そして、祖国愛は人間愛にたどり着くと思う。美しい習慣である。
会うのは2度目になった先生方との別れは少し寂しかったが、私は友人と共に次の会場へ向かった。中学の同窓会である。
タクシーを降りて店に入るまでに凍死しそうだった。
既に座敷は同窓会が盛り上がっていた。どうやらランチ後も講演後もハイテンションが続いていたらしい。
私はすっかりリラックスムードになって、その場の空気に溶け込んだ。飲むほどに酔いの前に睡魔が襲ってきて、気を失いそうだった……が、こらえた。
皆にお土産を配って同窓会が終わったと思ったら、2次会へ行くという。今夜はとことん付き合うに決まっている。
吹雪の中、もう20年以上行ったことがなかったカラオケスナックに移動した。ぼやぼやしていると、ここで越冬することになりそうだったが、気にしなかった。入ってすぐ皆がごく自然に曲を注文して歌い出したので、眠っていた私のカラオケの虫も冬眠から覚めた。越冬どころではない。友人たちに感謝の気持ちをこめてエンターティナーになりきった。
最後、先月初めて知ったばかりの「女々しくて」を注文して、店中の人たちを巻き込んで歌って踊った。
最高だった。40年前、こんな40年後を誰が予想しただろうか。
ホテルの部屋に落ち着いたのは午前2時だった。健全な時間帯だが、横になって寝るのは2日ぶりだ。
1月11日(土)「怒涛の旅の2日目・・・の風さん」
午前7時起床。同じホテルに泊まっている友人が目覚めたのは、私がホテルをチェックアウトして次の目的地に向かった後だったそうだから、私の早起きは異常だったのかもしれない。
最上階のレストランで朝食を摂ったが、温度差で曇っている窓ガラス越しに由利本荘の市街地を眺めると、寒々とした雪景色だった。
昨日の講演会のために泊まったのは、私の友人だけではなかった。聴講された方もレストランにみえた。吹雪だし、懇親会で飲んでしまったので、帰れなくなったのではないだろうか。
地下駐車場にとめたレンタカーは雪で真っ白におおわれていた。屋根があっても横から雪が吹き込んでくるのだ。
さすが雪国のレンタカー、雪をかきとるブラシが備えてあった。それを使ってへばりついた雪を取り除いて、やっと出発できる状態になった。
昨日と逆方向になるが、高速道路にのった。大曲まで秋田県を横断するようなショートカットもあるが、この吹雪と積雪では、時間がかかっても高速道路の方が無難だろうという友人たちのアドバイスに従ったのだ。
ナビの予想到着時刻を見ると、約束の11時は楽勝である。しかし、しばらく走っているうちにそれが信用できないことが分かった。高速道路の想定走行速度は80km/時らしい。悪天候による制限速度50km/時を上回る速度で走っているが、さすがに80km/時は出せない。予想到着時刻はじりじりと後退していくのだ。
さらに秋田道に入ってから不運に襲われた。吹雪のため通行止めになっていて、協和ICでおろされてしまったのだ。目的地の友人宅まで30kmを残していた。そのことを友人に電話すると、あと40分はかかるね、とのことだった。予想到着時刻は30分遅れの11時半になってしまった。
それにより、大曲を出発する時刻も30分繰り上げて午後1時半に決めた。2時間の滞在のために、自分はこんな苦労をしているのだ。仕方ない。これは自分の性分である。
ラッセル車のような除雪車が何台も稼動していて、スピードは上がらなかったが、何とか着いた。朝から自宅周辺の雪かきをしていた友人が運転を代わってくれて、もう一人の友人宅へ回り、3人で蕎麦屋へ入った。
納豆蕎麦セットを食べながら久しぶりのおしゃべりをしたが、運転をしてくれた友人は税理士で今が書き入れ時なのだろう、電話で何度も食事もおしゃべりも中断された。
逆のルートで友人たちと別れ、秋田空港へ向かったが、強制的におろされた協和ICではなく大曲ICからのれそうだったので向かったが、やはり通行止めだった。雪に車輪をとられて往生しているクルマがいたが、「ごめんなさい。時間がないので」と謝って通り過ぎた。
それから秋田空港までがんばん降る雪の中をひた走りに走った。レンタカーは運転した友人が太鼓判を押した四駆だった。軽四でも一般道で70km/時出してもコントロール可能だった。やはり四駆はすごいな。
そのひた走りのおかげで、レンタカー店には予定の午後3時に返却することができた。
空港まで車で送ってもらったのだが、おりるとき雪に滑って転びそうになった。ここで骨折していたら大変なことになっていたろう。
秋田空港にはすっかり慣れたので、てきぱきとチェックインやお土産購入をした。そして、すっかり安心して手荷物検査を受けて中へ入ったところで、またボケをやらかした。購入したお土産を忘れてきたのだ。前と同じへまである。落ち込んだが、泣いている場合ではない。すぐに係員に申告した。すると、前と同じように、待つほどもなく「これですか?」と持ってきてくれた。日本のしかも秋田である。分厚い財布を置いてきてもなくならないだろう。
除雪作業が難航して、離陸は30分遅れた。しかし、飛んでしまえばこっちのもんだ。
怒涛の秋田の旅が後方になっていく。やはりこれはやり過ぎだったか。いや、充実した旅だったと思うことにしよう。
ワイフが迎えに来てくれて、昨日の全く逆で、私が運転して家路についた。
家では、おびただしいお土産の山に、ワイフが狂喜した。豊かな土地なのだ、秋田は。
1月12日(日)「5時間の取材対応・・・の風さん」
午後から金沢工大の学内誌のためのインタビューを受けるので、午前中は書斎の整理をしながら、参考資料を取り出しておいた。
予定より早く東京から編集者が到着したので、最寄の駅まで迎えに行き、かねて立てた作戦通りに、知多半島算額見学ツアーに出発した。
和算を数学としてしか理解していない人に、文化としての価値を伝えるには算額を見てもらうのがベストである。
源義朝の墓があって観光スポットでもある大御堂寺へ先ず案内した。編集者は既に私のアドバイス通り、石川県の金沢工大近くの算額を見学してきており、話は早かった。
続けて、さらに南下して、南知多町の光明寺(別名寅薬師)の算額を紹介した。ここもレプリカではあるが、写真撮影には絶好なので、私も含めて撮ってもらった。
乗り心地最低のキャメロンで走ったのだが、かつてロードスターオーナーズクラブのメンバーを取材したことがあるという編集者は平気そうだった。
拙宅では、本物の和算書などを見てもらいながら、いかに江戸時代に数学文化が日本人と国土のすみずみまで浸透していたかを力説した。これだけ主張しておけば、たとえ一般的な和算の記事になったとしても、文章のニュアンスが微妙に変わるはずである。そして、主に金沢工大の学生たちに江戸時代の豊かな数学文化を知ってもらえることになる。
5時間におよぶ取材を終えた編集者を駅まで送って、この日のスケジュールが終わったが、しゃべりまくっていた私よりもひたすら聞き役にまわっていた編集者の方が疲れたことだろう。ご苦労様でした。
1月13日(月)「充電を意識した日・・・の風さん」
今年最初のヤマ場を昨日で乗り切ったので、精神的にいくらか楽になった。
次のヤマ場は今月後半にある。愛工大大学院後期の非常勤講義を終えることと、作家としての講演である。どちらも新たに準備することがある。直前徹夜は避けたいが、それだけやっていられる身分ではないので、そうなってしまう恐れは十分ある。
今日は世の中は「成人の日」で祝日である。4月からは、世間にうとい生活から、少なくとも旗日を意識できる生活に戻れるかもしれない。それまであと3ヶ月を切った。
交通量が少ない中、出社して、今日はやりかけの仕事をたくさんこなした。
キャメロンに給油して帰宅した。
夢中で1日を過ごしながら、ちゃんと充電しながらの生活が大切だな、とあらためて思った。4月からは人生の再スタートになるが、放電ばかりではいけない。プロ野球の選手なら、そろそろ自主トレだし、シーズンに突入してからも、ほぼ毎日トレーニングは続くのだ。自主トレは満充電にすることだろう。毎日のトレーニングは、適正充電量を維持するためのものだ。これまでの私は、どちらも不十分というか、ないに等しかった。それでは、残りの人生をまともに生きられない。
1月14日(火)「ビジネスは面白い・・・の風さん」
フレックスで15分遅れで出社した。わずか15分遅れでも、起床やクルマの運転が楽になる。これからは15分遅れ出社を標準モードにしよう。
午前も午後も会議があって気が抜けなかった。昼休みは目をつぶって体を休めていた。
企業内研修にかかわる仕事をしていると、世の中のさまざまなマネジメントスタイルに触れることができる。ベンチマーキングすることで、それらのエッセンスを社内に応用して効果を出そうというわけだ。
かつてはその会社の製品がその会社の競争力を代表していた。今はそれだけでは競争に勝てない時代になっている。典型的な例がビジネスモデルだろう。場合によっては製品の競争力以上の効果を上げることがある。しかし、ビジネスモデルで勝っている企業は、ビジネスモデルで負けるというアキレス腱を持っていることを自覚しなければならない。
要は総合力なのである。
商業ベースのモノづくりがきわめて高度で複雑でそれでいて美しいマネジメントの結晶であるのは、ビジネスそのものが総合的な最適解で勝負しているからだろう。
企業内研修はビジネスの要素の一つに過ぎないが、たかが研修だがされど研修でもある。
1月15日(水)「UFO? ・・・の風さん」
出社時、有料道路を北上していると、はるか前方の上空に怪しげな物体が浮かんでいるのが見えた。少しずつ移動している感じもある。UFOではなく飛行船のような感じがしたので、確かめたくなった。ぐんぐん北上していくと、飛行物体の姿は遠ざかりつつも本当に少しずつ輪郭を明らかにしていった。
たぶん飛行船だと思えるぐらいの距離になってから、両者の距離は開いていった。なので、飛行船だとしても、何の目的の飛行船かは分からなかった。
今日も午前と午後に会議があって気の抜けない1日だったが、それだけで終わるわけにはいかない。昼休みに銀行と郵便局に行ってきた。
銀行で通帳記入をしたが、1件だけ理解できない引き落としがあった。通常使用しないカードでの決済で、金額や時期にも心当たりがなかった。
帰宅して、夜、書斎からカード盗難・紛失ダイヤルへ電話した。そこでは何の費用として落ちたのか分からないとのことだった。確認は日中でないとできないが、電話番号を教えてもらった。とにかく連絡したという事実は残した(テープ録音されているはず)。
しかし、不安である。
今朝見た飛行船は実はUFO?
1月16日(木)「マジで認知症・・・の風さん」
昨夜は今日の非常勤講義のため半徹夜となった。今朝、2時間仮眠しただけである。
午前中にカード会社に電話した。それで、引き落とし金額が何の目的か判明した。某学会の年会費だった。これまで給与からの天引きだったが、定年退職とともにグループ会社に異動したため、自分の銀行口座からの自動引き落としに変更しなければならないと思っていた案件である。しかし、私の記憶では、その処置が間に合わなかったような気がしていた。そして、そのまま意識から遠ざかっていたのだ。それだけでも恐ろしいことだが、ここで二つの問題が得体のしれない化け物のように姿を現した。
第一の問題は、全く記憶にない引き落とし手続きがなされていたこと。第二の問題は、それが通常使用しないと決めていたカード会社を通じたものだったことだ。
これまで自らの認知症の予兆にビクビクしていたが、これほど明確な予兆は初めてだった。
そのことを同僚の一人に打ち明けたら「会社を辞めると決断した時期が遅かったようですね」と本質的な指摘を受けた。
4月から私はちゃんと作家としてやっていけるのだろうか。
午後有休にして、本山キャンパスへ直行した。
講義は学生がなかなかスタンバイできず、スタートが遅れた。しかし、準備の甲斐あって順調に終了できた。
帰宅してカード決済事件をワイフに話し、非常に落ち込んだことを打ち明けたが、その通りには受け止めてくれなかった。
ラインゲームをやったらPOPで新記録が出た。お! まだやれるかも(笑)。
1月17日(金)「嵐の後のひと休みか・・・の風さん」
退職関連手続きファイルの中に、学会からの通知ハガキが入っていた。カード会社を通じて年会費が引き落とされることを通知するハガキだった。つまり、手続きが完了したことのお知らせだった。そこまで証拠が出てきても、手続きをした記憶が呼び戻せない。
会社で先輩にもそのことを話したら、定年前後に集中してたくさんの処理をしているから、覚えていなくても当然だ、と慰めてくれた。しかし、忘れたことだけが問題ではなく、通常は使用しない(書斎の机の引き出しの奥にしまってある)カードが使われたことも大きな問題なのだ。なぜそのカードを使ったのか、理由が全く理解できないのだ。割引があるわけでもないし、マイレージがたまるわけでもないのだ。
会社でやりかけている仕事も多い。ボケ老人にはつらいことだ(一つ一つの難易度が低くても、数が多いことが問題なのだ)。
それらの中の一つが、案外楽に進捗した。これなら、多忙な来週から再来週にかけて、何とかマイペースでこなせるかもしれない。
実に久しぶりに平穏な週末がやってきた。
1月18日(土)「観音様の命日・・・の風さん」
穏やかな気候に誘われるようにキャメロンで家を出た。
先ず図書館へ行って用事を済ませ、続けて心月斎へ向かった。最近出ている私の記事や原稿など、新聞・冊子のたぐいを前の住職さんに届けるためだ。
お寺は法事の真っ最中で、前の住職さんと現住職さんの読経の声が聞こえてきた。
前の住職さんの奥さんに来訪の趣旨を話しかけたところで、冊子の一つに目が行き「あ、これ、もう見ました」。
地元法人会の冊子なのだが、心月斎も宗教法人として会員になっているとのことだった。そして、前の住職さんも登場したことがあるという。汗顔の至りとはことだろう。
恐縮していると、奥さんはふと気が付いたように部屋へ。やがて、
「18日は観音様のお命日ですから」
と地元の和菓子屋さんの葛巻を2本(柚子と抹茶)くださった。
帰宅して「またもらっちゃった」とワイフに報告すると、喜びながら、さっそく仏壇へ。
法事で何度も心月斎でお経を唱和しているが、その中で何度も出てくる「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」という一節が頭に焼き付いている。「観音菩薩の力を念ずれば(何でもかなう)」という意味だ。
仏壇に手を合わせながら、念じているうちに思い出した。
18日は母の命日だった。
母に観音様はよく似合う。
1月19日(日)「診察券紛失事件・・・の風さん」
年末にとれてしまった奥歯の詰め物の治療のため、本社近くの歯医者まで行ってきた。
仮の詰め物を除いて型をとり、また仮の詰め物をして帰ってきた。次回で治療は終わる予定だ。
帰宅して、さっき受け取ったばかりの診察券が見つからないという事件が起きた。またか、とうんざりだが仕方ない。
必死に探しても見つからない。持ち物はすべてひっくり返してみたがないのだ。
とうとう歯医者に電話して、落としてなかったか尋ねたが、ないとの返事だった。
永久に見つからなくても大問題にならないことは分かっている。しかし、こういった事件は、何度も繰り返されていて、老いの身にはこたえるのだ。
しかし、まだ救いはあった。技術者の知恵が、物理的にあり得る探し場所を示唆してくれるのだ。それらの中から診察券は見つかった。
持参した文庫の帯と表紙の間にはさまっていたのだ。
夜、親しい和算研究者からの返信で、奥様が一昨日急逝されたことを知った。
衝撃だった。言葉もない。ひたすら合掌。
1月20日(月)「秋田高校の先輩・・・の風さん」
まだちょっと早かったかもしれないが、会社のメールアドレス宛てに送られてくる業務に関係した宣伝メールを断ることにした。
1件だけ今後も欲しい情報を送ってくる相手には自宅メールアドレスに変更し、4件を業務内容の変更を理由に配信停止をお願いした。自分の能力をこえる情報量を受け取っているので、この程度の処置では感傷にひたることもない。
愛知淑徳大学の先生からのメールの中に面白い情報があった。新日鉄住金の新社長になる人が秋田高校のOBで、しかも在学中はラグビー部だったという。さっそくネットで調べると、花園に2度も出場していた。一橋大学卒でハーバード大学大学院ビジネススクールも卒業していた。4年くらい先輩で一緒に通学した期間はないが、身近な印象を感じた。
1月21日(火)「飲まない飲み会・・・の風さん」
会社の仕事というものは、計画通り予定通りに事が運ばないのが普通だ。出社してまもなく状況変化に直面することが多い。突然の仕事を指示されるのだ。これに耐えて且つ仕事をこなしていけるのは、特殊な能力のような気もする。
自分にそんな能力があるとも思えないが、30年以上にわたって会社員としてやってこれたのは、もしかすると必要最低限の能力は持ち合わせていたのかもしれない。
今日もいきなり新しい仕事が発生した。上司によると、年度初め(昨年の4月時点)に既に予定されていてもおかしくない仕事だったが、それはなかった、という。つまり、会社としても突然発生した仕事だと言える。あまり褒めた話ではない。
すぐに着手できることではないが(明日も明後日も私は忙しい)、期限までにやらねばならない状況だった。とりあえず3日後に関係者を集めて作戦会議をすることにした。
定時後、職場の新年会兼歓送迎会があった。多忙なので飲み会はできれば辞退したかったが、おそらく私の送迎会も開催されるだろうから、出ないわけにはいかない。
冷え込んできた時間帯、同僚をキャメロンに乗せて会場へ急いだ。初めて乗る低いシートの車に悲鳴を上げていた。
アルコールを飲まない冬の飲み会は寒かった。次の私のときは少しは陽気がよくなっているだろうか。
1月22日(水)「英語は頑張らねば・・・の風さん」
来週の講演のためのレジュメ作成を深夜までやっていたが、できなかった。作業量が多いせいではない。頭の整理というか、講演の狙いが定まらないのだ。今回は初めて和算とビジネスをドッキングさせるので、共通するものを絞り込めないでいる。
やむを得ず午前有休にして続きをやったが、できなかった。
午後は名古屋出張だったので、その前後にスケジュールを入れていた。
久しぶりに某建築会社の知人と会って昼食を共にした。もう20年近い交友関係で、私は建築家としての彼を尊敬している。年も少し上で、先輩としてのアドバイスもたくさん頂戴した。今日は、ランチも食後の喫茶も、素敵な店に案内してくれた。お店の選定には彼の芸術的センスの良さと高さをいつも感じる。
出張は、会社の同期で今年から仕事も関係している友人の講演を聴講することだった。内容は、職場の若い部下たちのモチベーションをいかにして上げたかというもので、その徹底ぶりに驚き、またリーマンショック後のOSを解雇しないための工夫には感動した。
講演後、地下鉄でJINSショップへ行き、レンズの交換を依頼した(老眼がちょっと弱すぎたので)。
再び地下鉄に乗り、名商大伏見キャンパスを訪れた。新たに3つ目の国際認証を受けるため、OBとしてインタビューを受けるのである。東京校もビデオ回線でつながれていて、何人かのOBが質問に答えたが、ほとんどのOBは英語が流暢で(質問は英語だった)、日本語で説明した私は申し訳ない気分でいっぱいだった。会社を卒業後も英語は頑張るつもりだ。
1月23日(木)「今年度の非常勤講義が終了・・・の風さん」
今朝の5時まで非常勤講義の準備をした。うつらうつらしながらの準備で、能率も悪かったが、十分な準備はできなかった。
2時間ほど仮眠して出社した。
昼食後、午後有休ですぐ本山キャンパスへ向かった。
後期最後の非常勤講義だが、その前にスケジュールを組んであった。中産連との打ち合わせである。昨年のサイバネティクス協議会と同様に、本山キャンパスまで来てもらった。
お茶出し用のお菓子を買ってきて、打ち合わせに備えた。
打ち合わせは毎月発行している冊子への寄稿で、4月号から3回連続執筆することになった。完全に作家として独立して初仕事になるかもしれない。
講義は準備した量が少なかったので、早々に終わった。レポートも受け取ったので、成績をつけて田村先生へ伝えねばならない。
先生の急逝というとんでもない状況での代講で、科目もオペレーションズリサーチという専門外のものだったが、それなりに勉強できて、既に決まっている来年への期待と抱負もある。
一般道を1時間半ほど走って帰宅した。
それにしても連日密度の高い状態が続いている。
1月24日(金)「遅れても遅れてもめげないこと・・・の風さん」
火曜日に突然発生した仕事の作戦会議をした。協力者を集め、方向付けをした後、データ探しをした。
基本的に写真データである。古い写真を集められるだけ集め、それを元に資料を作成しなければならない。
皆の協力でかなり集まった感じがした。今日はそこまでである。
今日予定していた仕事が遅れたので残業になった。早く帰ってやりたいことがあったが、スタートは遅れた。仕方ない。
予定通りに行かなくても、めげずにやること。それが仕事というものだ。
来週の月曜日の午後は有休なので、どうしても今日までに整理しておきたい仕事だった。
1月25日(土)「電子書籍の問題点の一つ・・・の風さん」
来週の月曜日の午後、作家として講演をする。ところが、いつもの和算とか天文学とか和時計といったネタが中心ではない。
今回の中心は、どちらかというとビジネスである。
しかし、和算小説家がビジネスを語るので、何とかそれらしい筋の通った話にしたい。
秋田の講演も直前まで苦しんだ。今回も苦しみそうだ。
先週、図書館で借りたCDを返却に行ってきた。
CDはジャズピアニストのオスカーピーターソンの演奏である。良い曲が入っていたので、パソコンに取り込んだが、ケータイへの転
送ができなかった。ほぼ1年ぶりに立ち上げたソフトが、うまく動作しなかったのだ。
パソコンソフトというやつは、新しいソフトが入ったりすると、以前のソフトが正常に働かなくなることがある。
電子書籍が普及しない理由の一つがこれだと思う。
夜になって、久しぶりに雨が降ってきた。かなり本格的な降りだ。
講演スライドはまだできない。方針が定まらないからだ。
1月26日(日)「講演の主題は自彊不息・・・の風さん」
講演スライドの作成で、余裕がなくなった。
持ち時間は質疑応答などすべて含めて2時間ある。これはありがたい。1時間半しっかり喋れるようにスライドの枚数の目標は90枚
である。しかし、これだけの分量になると、もう大長編小説みたいなものだ。うまくいけば傑作になる。しかし、主題が未だにハッキリ
しないのだ。和算から話し出して、ビジネスのどんな側面を浮かび上がらせたらいいのだろう。
そして、とにかくビジネスマンを、経営者を元気にさせねばならないのだ。
深夜になって、やっと主題を決めた。私の好きなことば「自彊不息」である。
しかし、スライドはなかなか完成に近付かなかった。
1月27日(月)「反省の多い講演会・・・の風さん」
結局、就寝(とは言えないが)したのは午前5時だった。少しでも寝ておかないと、午後の講演でどんなヘマをしでかすか分かったものではない。頑張って(?)2時間半の睡眠を確保し、フレックスで出社した。
午前中、職場全員が出席する会議があり、職場防災隊の組織見直しについて発表した。
会議後、社長との約束で、廃却と売却を予定している設備を見てもらった。だいたい自信があったので、すぐ了解してもらえた。
昼食後すぐ退社した(歯磨きはちゃんとした)。
帰宅して、スーツに着替え、今朝思いついた講演スライドの手直しをし、販売用に『江戸の天才数学者』を10冊用意してサインした。気候的には問題なかったので、外へ出て、主催者である地元企業の社長を待った。
しばらくして、私が乗ったこともない高級車で迎えに来てくれた。
もともと電車で行くつもりだったが、どうしても迎えに来るとのことで、甘えることにした。しかし、電車だったら小一時間のうたた寝ができたのだが、それは無理。仕方ない。
会場である名古屋のホテルに到着し、持参のマックとプロジェクターの相性を確認した。OKだった(と、そのときは思ったが、精細な画像に対して、コントラストと解像度に重大な問題があって、聴講者に迷惑をかけてしまった。ごめんなさい)。
約1時間50分の真面目な講演を終えた。ジョークをはさんでいる余裕はほとんどなかった。
すぐに懇親会になり、秋田の講演のときと同様に、飲食は控えて、ビールを注いで回りながら交流を深めた。
以前にもお会いした名大の名誉教授と、こちらも面識のある今回の講演記録を書いてくれる女性と3人を、主催者の社長に送ってもらうことになった。女性は無事に送り届けることができたが、先生は車から降りるとき、外で転んでしまい、すぐに起きられなくなってしまった。結局、救急車を呼んで、その病院まで社長の車で追いかけて、大事ないことを確認して、今度は先生と奥様を乗せて再びご自宅まで送ることになった。
私も相当に老体だが、先生は80歳を超えておられるわけだから、車から降りられるときに、外でサポートするべきだった。
ずいぶん遠回りをしたような感じがしたが、社長の車は夢のようにスムーズに走って、当初覚悟していた時間よりも早く帰宅できた。
寝る前に、ワイフに今日の講演スライドをマックの画面で見せたら、「そりゃ難しすぎるわ」のひと言でチョン。
もう作家として70回以上も講演しているのに、反省が多過ぎる。
1月28日(火)「復活するかソーラーウォッチ・・・の風さん」
今朝、腕時計をはめようとしたら、止まっていた!
ソーラーウォッチだが、針式なのでパワーを食う。以前にも止まったことがあり、時計屋でしつこくお日様に当ててくれ、充電電池交換(1万円はするそうだ)は避けられた。日ごろから充電にもっと気を配る必要があったのだ。
今日も晴天で日差しが期待できたので、出社してすぐ、腕時計をキャメロンのフロントガラスの内側の、絶好の位置に置いて建物に入った。
今日は、フレックスで早めに退社した。お日様に当てたお蔭で腕時計が動いている。
急いで歯医者へ直行した。詰め物がとれた歯に冠をかぶせてもらうのだ。
医者は腕がよく、手際よく完了したが、なぜか冷たいものが激しくしみる。そういうものらしいが、ごくまれに痛みが消えないこともあるそうで、そのときは神経を抜くらしい。恐怖。
帰宅し、家から古い付き合いの出版社へ電話し、絶版の相談をした。少しずつ私の想定通りになっていく。
1月29日(水)「ボケ3・・・の風さん」
朝から、腕時計の充電で頭がいっぱいだった。
今日も快晴なので、出社してすぐ腕時計をフロントガラスの内側に置いてキャメロンを離れた。
社屋に入って着替えていて気が付いた。
セーターを着て来るのを忘れた。……ボケ1。
夕方、廃却設備を持って製作所へ。
安全メガネに帽子、安全靴と完璧ないでたちで、所内にある処理場へ。端から端まで歩いたので、けっこうな運動量になった。
それから製作所で退社手続き。保険の関係でまた子供らの生年月日を思い出せない。ボケ2。
帰りに大型家電量販店に寄ってプリンターのインクカートリッジを購入。
スーパーでレギュラーコーヒーを買い、ガソリンスタンドで灯油を買って、意気揚々と帰宅。
また、インクカートリッジのタイプを間違えたに気付いた。ボケ3。
1月30日(木)「素晴らしいニュース・・・の風さん」
1年で最も長く感じる1月がもう終わろうとしている、と毎年書いているが、今年は、すごいことが起きた。
小保方さんのSTAP細胞の論文である。学問的に大発見であり、その最初の論文になったということは、これから続く世界の論文の中で次々に引用されるのは間違いなく、ノーベル賞につながる可能性が高いということだ。
そして、何よりも好感がもてるのは、彼女より年長の研究者たちが彼女の貢献を認めて、論文の第一執筆者にしていることだ。
このことはどれだけ強調してもし過ぎることはない。
手前味噌で恐縮だが、私も会社ではその姿勢を貫いてきたつもりだ。なにも私が偉いわけではない。昔はそのように私自身指導もされ教育もされてきたからだ。先輩を見習ってきただけである。
……と、偉そうなことを言っても貧老人。帰りに大型家電量販店でインクカートリッジを交換してもらった。どうにかならないのか、俺のボケは。
1月31日(金)「恩師の絶筆・・・の風さん」
朝の出勤時、目の前をBMW320dが走っていた。2009年にドイツで運転した車だ。ガソリン車の320iはたくさん走っている。しかし、ディーゼル車の320dは珍しい。こだわりの人かもしれない。
今日は月度報告や月度計画を書いて提出する日だった。さらに、先週突然発生した資料作りのたたき台をまとめなければならない日でもあった。結局、残業になってしまった。どうも効率が悪い。
今日は、ちょっと鳥肌が立つようなことがあった。怖い話というわけではない。
昨年の8月にお亡くなりになった恩師大野先生の新刊が出たという知らせが届いたのだ。
生前に準備をしていて、出版を待たずに亡くなられるということは、理論的には十分あり得る。継続的に本を出していた作家の場合、絶筆とか言って没後に新刊が出ることは珍しいことではない。
しかし、出版がメインの活動ではない研究者である。それが、絶筆という感じで本が出たのだ。
注文しよう。
2014年2月はここ
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